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はむつなブログ

日々感じたこと、考えたことなど書いていきたいです。

図書館

地元の図書館に行った。
最後にその図書館で本を借りたのは十数年前だ。その間、図書館で本を借りるという発想がまるでなかった。行きたいという気持ちもなかった。本当に久しぶりに足を運んだ。建物も雰囲気も昔と何ひとつ変わっていなかった。なにより一番新鮮に感じたのは、無料で本が借りられるということ。その当然の仕組みに感動した。読みたかった本がタダで読める。家に持ち帰りゆっくり読むことができる。嬉しかった。本は高い。たくさん読もうと思っても、読みたい本があっても、お金を本に惜しみなく使うことはできない。ネットを見ていると思わず読みたくなる本が出てくる。あらすじやレビューを眺めていると、ますます読みたい気持ちが高くなる。次々にそんな本が増えるが、増えれば増えるほどその気持ちは移り気になり、そしていつしか忘れていく。当たり前だが、読まなければ困るものではない。生活において後回しにできるもの。それでも手に取って読みたくなるのは心動かされ、感動したいからだろう。そして、色々と考えたいのかもしれない。


図書館は思っていたより混んでいた。指定の駐車場は満杯だった。警備員は空き地(臨時の駐車場)へとすぐに誘導してくれた。ホッとした。もし待たされる状況なら帰っていたかもしれない。田舎育ちのせいか、のんぴリできない性格のせいか、路肩にとめた車の中でじっと待つということがとにかく苦手だ。
建物に入り図書フロアーで辺りを見回す。特に目立ったのは年配の男性達だった。白髪交じりのおそらくは勤めをリタイアした年代の人たちが多く目についた。椅子に腰かけ、熱心に読書をしている。そのくらいの年齢の男の人は一体どんな種類の本を読むのだろうか。偏見としては歴史小説か。そんな人ばかりではないだろうけど、気になる。あまりジロジロ見ることはできないのでチラ見する。眼鏡をかけて本を読む、普段着の男たち。家の外でゆっくり座って快適に時間を過ごせる場所は限られている。外は寒いし、喫茶店も本屋も長居は出来ない。改めて図書館という場所について考えた。誰にも干渉されない、干渉しなくていい場所。少しのうたた寝くらいは許してもらえるだろう。誰にも邪魔されず堂々と静かに落ち着ける場所。ショッピングモールや流行の店など、人の賑わう場所がきつく感じるようになった私にも楽でいられる空間だった。色とりどりの活気あふれる若者の街に未だに憧れはあるけど気後れする気持ちの方がずっと大きい。楽しそうな笑い声がどうしてもうっとうしいと感じる時があった。一言で言うと疲れる。それだけ。

久しぶりの図書館で「本を探す」という流れをつかめないまま、とりあえず雑誌コーナーで立ち読みする。周りの人たちの気配・雰囲気を背中で感じながら自分を図書館に慣れさせる。少し緊張していた。雑誌に目を落としながら、頭の中で最近読みたかった本を必死に思い出す。メモしておけばよかった。まあいいや、ゆっくり探そう。大きな図書館ではない。蔵書もたかが知れている。だから、いい。小説のコーナーも「あ行」から追っていけばすぐに読みたかった著者名が見つかるはずだ。そのくらい手ごろな規模の図書館だ。
以前TSUTAYA図書館に観光がてら訪れたことを思い出した。建物はきれいでおしゃれでとてもかっこよかった。本の量は多すぎた。背の高い書棚の列は迷路と変わりない。もはや何を探しているのか、何を読んだらいいのか分からなくなっていた。館内ではたくさんの若者たちが読書する様子を見物することができた。机には必ずスタバのコーヒーのカップがあった。ちょうど12月のクリスマスシーズンでカップの色は鮮やかな赤色だった。もちろん、観光客のわたしも同じようにならい、名物のコーヒーを買い何食わぬ顔でさりげなく読書の時間を過ごした。恥ずかしくもあり嬉しさもあり、落ち着かなかった。疲れた。いい思い出だ。普段使いの図書館は本当にそこそこがいいのかもしれない。疲れてはいけない。


こちらの分相応の図書館の雰囲気に慣れてきた私は何冊かの借りたい本を手にし、せっかくだからここで1冊くらい読んでいこうと窓際の椅子に腰かける。私は自分の部屋以外では小説というものが読めない。全く入り込むことができない。なので、ここはエッセイだろうと中村うさぎの本を手にする。あけすけだからではなく、ここまで自分について正直に公正に説明しようとする姿勢はすごい、だから読んでいておもしろい。そしてこれほど自分と向き合うのはそれなりに大変だよな、自分の頭の中でいつも裁判が行われているのだな、程度の差こそあれ私もそうで、誰もがそういう風にして生きているのだろう、などと考えながら読書を楽しんでいた。そんな時、私の座っているそばの椅子にパタパタと小走りで近づいてきた人がいた。

その気配に顔をあげると、その人は私の存在に気づき、大きくニコっと笑い、はっきりと会釈をし近くの席に腰かけた。わたしも思わずぺこりと会釈した。知り合いではない。女の人だった。年齢が分からない。というのも、わたしはメガネをはずして読書をしていたので裸眼では人の顔の詳細を識別できなかった。ニコッと笑ったその表情もはっきりと認識したわけではない。ぼやけた視界の中でかすかにその表情を読み取れたというだけだ。それでも勘でも勘違いでもなく、彼女が私に笑顔を向けたのは間違いないと感じた。その理由は匂いだった。

本に視線を戻しながらも視界の端に写るその女性の気配を窺う。その人は何か自分の持ってきたファイルのようなものを熱心にめくっていた。子どものように。でも大人なんだろうなということは分かっていた。わたしはまだメガネを外している。まだその人のくっきりとした姿を判別していない。青い服を着ていることは分かったが、それがジャージなのかブラウスなのか見当はつかない。何となく席を移ろうかなと思わず感じたのは私が人間だからだろう。その人はとても楽しそうに、とても嬉しそうにファイルをめくっていた。たぶん満面の笑みで。はっきりとは聞き取れなかったけれど何かつぶやいている声が聞こえた。ひとりで。楽しんでいるようだった。まるで子どもだった。独特のにおいがあった。比喩ではなく、匂い。どう説明していいのかを人に考えさせてしまう、匂い。臭かった。そのまましばらく本を読んでいて、その人はわたしにむやみやたらに話しかけたりはしないだろうことが何となく分かった。できれば話しかけられたくなかった。わたしはそのまま読書を続けた。もちろん匂いはある。そのまま本に夢中になっていると、気づいたらその人はいなくなっていた。ついにメガネはかけなかった。

私の頭の中では裁判が始まっている。子どもはたまに臭い。動物は臭い。人間にもにおいがある。それは自然なことである。子供のような、少し動物のような人にもにおいがある。そのことについて、時に深く考えたり考えないように努めたり、言葉を選んだりしようとするのは人間だからだろう。野生の動物からしたら人間は臭いのかもしれない。不快なのかもしれない。だぶんそうだろう。

誰かの、反射的に向けられたその笑顔に、それがはっきりと見えなかったとしても、少しの恐れを感じたとしても、感動してしまうのはどうしてだろう。わたしは彼女のようになれないけれど、彼女のように笑ってもいいのかもしれない。

春の狂気 映画「櫻の園 1990」 

櫻の園【HDリマスター版】 [DVD]


3月。気温のゆるみにほっとする。もうあの寒さはやってこないのだ、と春の訪れを喜ぶ。が、そんな歓迎されるべき季節、特に3月という時間にひどく感傷的になる。難しい言葉を使いたくないので「おセンチ」と言おう。誰もがかつて、この時期に別れを経験する。させられる。これまでの生活とこれまでの自分からの別れ。区切り。3月というのは学校を卒業し、次の居場所までのそのあいだの月。どこにも拘束されていない身。証明できない期間。希望と焦り。その心もとない、ふわふわした状態を体が覚えているからだろう。まぶしい季節のどうしようもない憂い。春の狂気。わざわざ誰も口に出さないけれど、誰もがそう感じているのだと思いたい。

前置きが長いけど、ここから。
今の季節にぴったりの映画。あらすじとかは具体的には書きません。

櫻の園 1990年公開映画

洋画・邦画たくさんある中、また見たくなる作品というものは少ない。大抵は一度見ておしまい。「櫻の園」は何年かに一度、今くらいの季節に見たくなる。

原作は吉田秋生の漫画である。漫画の内容に沿っている所もあるけれど、まったく別物として楽しめる。少女と大人の間の不確かな時間を切り取った青春映画とでも言っておこう。大人になって学生生活を舞台にした映画やドラマを見ると、その青臭さに戸惑ったり、かけ離れたような素敵すぎる設定・展開に尻込みすることがある。この映画に関しては過ぎた季節を懐かしく感じつつ、どこかの誰かの青春の日をのぞいているような気分になる。そして客観的に眺めているようでいて、学生時代に感じる普遍的な気持ちや感覚に自分を重ね合わせて見てしまう。
映画でも小説でも「考えさせられる作品」というものがある。この櫻の園という映画は間違いなく「感じさせられる作品」だ。

私がこの映画を初めて見たのは高校生くらいの頃(だと思う)。深夜にテレビで放送されていたのをたまたま目にした。意識して最初からしっかり見ていたわけではないので、当時はあらすじをつかめていなかった。けれど「何だこの映画は…。」と強烈に感じた事を今もはっきりと覚えている。映画の中に漂う独特の雰囲気。これって…見てもいいのかな、見てはいけない世界を見てしまったという感触。あの感覚が忘れられず、数年後レンタルして改めて鑑賞した。そして、ますます惹かれた。決して過激な描写がある作品ではない。静かな色気と清潔さにあふれた作品。出演する俳優が時代的に微妙に馴染みがないからこそ入り込めるというのも大きい。

女子高が舞台なのだが、女生徒たちの描写がとにかくイイ。いろんな種類の人間の個性や性格、心情をこれでもかと鮮やかにみせている。それぞれの女生徒たちのどこか演じているかのような絶妙な台詞や立ち振る舞い。(もちろん俳優が実際演じているのだが。)それが、ものすごくリアリティがある。私が、誰もが、これまでに出会った人間をみているかのような気分になる。

メインキャストの生徒が何人かいるのだが、不思議なことにその他大勢の生徒達をもはや脇役だと感じない。主人公がいれば、主人公の人間性・行動・生き方等がクローズアップされ、当然ながら主人公の物語を見ている気分になる。その他大勢の脇役はあくまで装置としての人物でしかない。だけれど、この映画の中ではその他大勢の脇役でありながらも、それぞれが人格をもったそれぞれの人生においての主人公であることを改めて意識させられる。

「毎年美しく咲き乱れる桜は同じに見えるけれど同じではない。」

学校というものの残酷さ。それは生徒は必ず卒業していくということ。入れ替わりであり、繰り返されるもの。うつくしく、かけがえのない日々だったという若き日々への郷愁ではない。あの時の生徒たちはもういない。あの空間にいた、その時間というものはもう存在しない。誰にも変えることができない事実。時間の摂理。

春という季節の持つ狂気。それを淡々と描いたかのようなこの作品。素晴らしい。

口に出せない疑問

ユダヤ人の迫害について初めて学ぶのは小学校高学年くらいか。
手塚治虫の漫画や映画でも目にしていた。

アウシュビッツ。有刺鉄線。整列した軍人。縦じまの上下を着たユダヤ人。なきがら。白黒だから余計に暗く悲しく、そして怖かった。大人になった今、子供の頃よりはるかに見るのが辛い。
私は中学の頃、社会の授業で学び、ユダヤ人たちがかわいそうでならなかった。命がけの国外逃亡、隠し部屋をつきとめられ収容所へ連行される。わたしはナチスを、ヒトラーを憎んだ。ジンシュサベツはあってはならない、なぜつみなき人々があのように殺されなければならないのか。子供心にイキドオリを感じていた。私は心からナゲキながら、疑問を抱いていた。それはまさしく、まぎれもなく、純粋なギモンだった。聞いてはいけないような気がして誰にも聞けなかった。「何を言っているの?」と馬鹿にされそうで口に出せなかった。


なぜ「私はユダヤ人ではありません。」と言わないのか。

(何を言っているの?)



もうひとつ、同じ頃。

「ホモ、ゲイ。あいつはエイズだ。」それはなぜなのか。

(何を言っているの?)


この感覚。口に出せない疑問。


誰にも聞けなかった。子供だった。
ちゃんとした子供だった。

インターネットが普及するのはまだまだ先だ。

年寄りの嗜好

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年寄りは炭酸飲料が好きである。
間違いない。

緑茶より、ほうじ茶より、炭酸飲料。
カルピスより、ヤクルトより、炭酸飲料。
彼らは炭酸を愛し、炭酸に憧れている。

祖父は生きていたころ馬鹿みたいにコーラを飲んでいた。
コーラは日常だった。
畑仕事の相棒だった。
農作業小屋には赤い空き缶が溢れかえっていた。

ある時、コーラを飲むと骨が溶ける、という噂を聞きつけた祖父。
おそらくテレビかラジオか。
「もう、コーラは飲まん。」と言いだした。
健康に気を使うような爺ではなかった。
気まぐれか、気まぐれ。
そして三ツ矢サイダーに。

一緒じゃねーか。

そう思ったが関せず。

コーラ断ちも束の間、数日後には再び赤い缶が転がりだした。


祖母は仲間内でお手製の野菜やおかず、漬物だのをあげたり、もらったりしている。
おすそ分けである。

春、
トミちゃんからぼたもち。
吉田さんちからタケノコ。
中村のおばあちゃんから昆布の佃煮。
夏、
トミちゃんから生姜の漬物。
シゲちゃんからゴーヤー。
秋、
トミちゃんからおはぎ。
中村さんの旦那さんからサンマ。
冬、
シゲちゃんから大根と白菜。
トミちゃんから黒豆。
トミちゃんから数の子。


コミュニティは広いようで狭い。
そしてトミちゃんは、婆でなく爺だった。

冷凍室は謎のおすそ分けで溢れかえっている。時間が止まったこの空間には賞味期限など存在しない。

スーパーの白いビニールに入れるのはやめていただきたい。
確認する間に手が凍る。


祖母もお返しに励む。
もらってばかりではいられない。
だが時にはお返しに困ることもある。
そういつも、手製の品があるわけではない。

そんなとき、季節を問わない、誰もがもらって喜ばれるもの。

年寄りのてっぱん。
年寄りの虎の子。
年寄りの信頼の証。
それは、


オロナミンCの10本パック。

間違いない。



年寄りは元気ハツラツなのだ。

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ネタバレ注意報

                           平成29年2月25日

読書感想文のネタバレについて(お詫び)

拝啓
皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
平素ははむつなブログをご愛読いただきお礼申し上げます。

さて、この度は、当ブログにて読書感想文を公開したところ(平成29年1月30日付)、コメント欄にてお叱りの声を頂きました。

ご指摘の内容はネタバレすべきでないということ。
詳しくはネタバレさせずにそっと本を薦めるべきだというご見解。
貴重なご意見でございました。


当方、ブログで感想文を掲載するにあたり、文頭で下記の表記をしておりました。


※ネタバレがありますので、本を読んでいない方はどうか見ないで下さい。
もったいないです。本を買って、まずは読んでください。買いです。


ツイッター上でも全く同じではありませんが、同様の文言を記載しておりました。


この度は私の身勝手かつ軽はずみな表現で一部の読者様の楽しみ、知的欲求を損ない、不快な思いをさせてしまいました事、心よりお詫び申し上げます。

細心の注意を払っているつもりで書いた喚起の言葉でした。
私なりの純粋な警告のつもりでございました。

が、まるで


今、オ◯ニーできないなら絶対に見ないでください。
その場で100%ヌイてしまいます。


という、件のバナー広告に似て非なるものでございました。

これでは如何にも、まさしく釣りでした。
いかがわしいものでした。遜色ないものでした。
いえ、似ても似つかぬものでございます。まったく不遜でございます。

頬を赤らめた婦女子のあられもない姿。
添えられた粋なプロモーション。健康的且つ効果的。非の打ち所がない宣伝スタイル。
それに比べ、足元にも及ばないわたくしの駄文。
安売りチラシの如く慇懃無礼なものでした。自身の浅はかな欲求を満たすべく、ぶしつけで傲慢な言い回し。歴然としたレベルの違い。まったく、不快にさせるものでした。いかがわしいのは、まったく、このわたくしめでございます。

仰るとおりでございます。
この通り、謹んでお詫び申し上げます 。

ご批判を真摯に受け止め、今後再発防止に努めてまいります。

近日中に、昔ばなし「桃太郎」の読書感想文を書く予定でございました。
こちらも負けず劣らず出色の作品でございます。痛快で優れたこの物語をネタバレしないよう、是非とも手に取って読んでみたい、と思って頂けるような文章を書く所存でございます。その際も「ネタバレ注意」と喚起の言葉を添えますが、浅学非才(せんがくひさい)のちせつな文章ゆえ、皆様方の「野生の勘」で、あらかじめ判断いただきますようお願い申し上げます。

これを機に更なる努力を重ね、より一層精進してまいります。

たいへん貴重なご意見ありがとうございました。

恐縮ではございますが、皆さまには今後ともご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

                                敬具
                                はむつな





抗議文ではございません。
お礼状でございます。
大人げない私の感謝の言葉です。

まとまりの無い、下手糞なひたすら長い読書感想文を読んでいただき、コメントを書いて頂いたこと心から嬉しく思っております。

書評ではなく、読書感想文です。
もはや「どくしょかんそうぶん」です。

ひらめきと道楽で始めたブログです。
自傷とリハビリのようなイージーでのんきなアーパーブログです。
スムージーとヨガとランチ同然でございます。

全く、無意味なことに時間を費やしている自分にぞっとしていました。
けれども、どこかの誰かがこのブログを読んでいる気配があると慌てふためき、そして思わず顔がほころぶばかりでした。

「言っていることはわかるが、」という前置きで始まるコメントにはめいめいのご意見・お考えがあるのだと思っています。
言及するつもりはございませんし、言及できるはずもございません。
私の文章そのものがエゴイスティックで未完成なものです。
「もっと上手に、こう書けば良かった、ああ書けば良かった」と繰り返し悔やむ思いでした。実際書き換えることはできるのですが、それは「なにか」に反するのではと、アーパーなりに思うところがあり止めました。
どのような内容のコメントであれ、「わかるが」のその一言には、ただただ報われる思いです。
おっしゃっていた内容には私も「わかる」の一言でした。

お名前の付いたコメントに対し(匿名ではあるでしょうが)、名指しで糾弾するかのような、このような文章を一方的に載せることは筋違いだと思いましたので、頂いたコメントは本日、非公開にさせていただきました。
どうか、ご容赦ください。

初めてのコメントをいただいた方へ、この場を借りて感謝申し上げます。


ネタの提供、ありがとう  m(__)m

気が向いたら、また読んでね(^^)/


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荒野のチキンラーメン

久しぶりに、チキンラーメンを食べる。

カップ麺ではなく袋麺。
ラーメンどんぶりでも手軽に作れるのだが、なんとなく鍋に火をかけ、湯を張って作る。ネギを刻み、卵を割り入れる。
チキンラーメンの最大の特徴といえば、具なし。かやくも、粉末スープも入っていない。が、今回見慣れない小袋が入っていた。

ひよこのナルト。

パッケージを読むと、今年の干支が酉ということで、期間限定のものらしい。
あのおなじみのひよこちゃんの顔。ぺらぺらのひよこナルトが、5枚入っている。小袋には申し訳程度に乾燥ネギも入っている。
透き通ったスープにプカプカ浮かぶネギとひよこ。ひよこちゃん

かわいい。かわいすぎる。

なぜかしら。
イラッとする。癇に障る。

媚び。
媚びたひよこ。

孤高の具なしチキンラーメン。世界初のインスタントラーメン。
チキンラーメン生みの親、日清創業者、安藤百福氏。たった一人寝る間も惜しんで研究を重ね、思考錯誤を繰り返し、死に物狂いで開発に取り組んだ男。この世にチキンラーメンを生みだした男。インスタントラーメンの偉大なる父。
今は亡き氏が、この媚びたひよこの件を果たして許しただろうか。

たぶん許した。

酉年ひよこナルト。
結構なことじゃないか。
ケチな女の戯言である。ざれごと。
乾燥ネギが入っていることに気づかず、わざわざネギを切った手間を悔やんだ、ケチな女の戯言。たわごと。ひよこに罪はない。日清様にも。

そんなことはどうでもいい。
それより、チキンラーメンの袋を開け、麵を取り出した時にいつも感じることがある。
あの独特の麺の色。スープというか、味を染み込ませているのだから当然だが、他の即席麺の白っぽい色とはかけ離れている。赤土色というか。もはや、「チキン色」としか表現できないアノ色。
昭和のあせた西日のような、あの色。大衆的でいて、不穏な色。荒野。そう、荒野の色。乾燥した荒地。寂寥感ただよう大地。まだ見ぬ荒野。西部。テキサス。モニュメントバレー。馬にまたがる日に焼けたガンマン。男の帰りを待つ女たち。影のある男と影のある女。影を作りだしているのは、地平線に沈むあの夕日なのか。それとも・・・。

私は荒野って言いたいだけなのかもしれない。


ところで、コーヤコーヤ星をご存知だろうか。ここからが本題。
知らない人はここから読まなくてもいい。
ピンときた方はできれば読んで頂きたい。

大長編ドラえもん Vol.2 のび太の宇宙開拓史/藤子F不二雄

名作である。
映画版ではなく、原作漫画で話を進めたい。(原作漫画と映画では細かい部分やアレンジが違ったりするらしい。)
のび太の部屋と何万光年も離れた遠い星、コーヤコーヤ星(最初は宇宙船)が偶然つながるところから始まる冒険の物語である。

「名作」と偉そうに断言したが、私はこれまで長い間、いや白状すると、チキンラーメンからコーヤコーヤ星を連想するまで、この作品を好んではいなかった。ハマってなかった。
他の大長編シリーズと比べて物足りなさを感じていた。作品の「色」に、男女で好みが分かれるという事も勿論あるだろう。 それ以前に何というか、地味でゆるいというか、ショボい、迷作だとおもっていた。原作漫画の表紙。つくねのような象のような、あの間抜けな生き物。大長編のハラハラ・ドキドキ感が一切感じられない表紙。他のシリーズと比べて浮いている。この感じこそがこの本の印象を一番に表しているものだった。もはやそこがツボというか、私の中で不思議なおかしな位置付けだった。

チキンラーメンを食べながら、この漫画のストーリーを思い出す。ふと、引っかかることがあって久しぶりに読み返した。
宇宙開拓史。すごい。おもしろい。つらい。

大長編ドラえもん Vol.10 のび太とアニマル惑星(プラネット)

設定やストーリーが似たところがあるのだが、こちらの方が内容も豪華、盛りだくさん。エンターテイメントとしてバランスよく作り込まれている。
宇宙開拓史からアニマルまで約10年経っているので、もちろん後者のほうが洗練されるというのはわかる。宇宙開拓史は実際、読み返してみると、ツッコみどころ満載というか、スキだらけなのである。色々と。ゲストのマスコットキャラが微妙にかわいくないとか。それだけじゃないけど。ほんとに。(不思議なことにこのキャラ、後々ハマる。カワイイ。でも時々、柳沢慎吾に見える。)
それでも、ストーリーや設定は言うまでもなく、のび太や登場人物たちの心情など、シンプルかつよくできている。洗練されていないからこそ、そこが際立って逆にグッとくる部分があるというか。味がある。
ところで、子供の頃って大長編の話の流れや意味をほとんど理解できていなかったように思う。それでも十分、楽しかったのだが。大長編は内容がとにかく知的すぎる。
ついでに、大長編どこまでアリとするのか問題。世代的なものもあると思うのだが、私はブリキの迷宮あたりかなと思うのだが、ギリギリ。うーん、難しい。


話を戻す。宇宙開拓史。
大長編ドラの最大の魅力は日常からの非日常、冒険である。

コーヤコーヤ星の荒涼とした大地を描いた見開きぺージがある。ここに、のび太の部屋がつながっているという設定。これが何より一番の魅力だろう。
もう、ため息のでるような設定。素晴らしすぎる。今更ながら、大人ながら、かなりくすぐられる。しかも畳の下。絵で見たら本当にたまらない。見事。夢しかない。
恐ろしいことに、これって「Twitter」なのである。
何をおっしゃる、今さらとの声もあるだろう。もちろん広く「インターネット」といっても差し支えないのだが、やはり「Twitter」でないといけない。私はツイッターを始めておよそ1か月のビギナーなので、余計にそう感じるのかもしれない。手放しで素晴らしいものとは言えないが(説明すると長くなる。非常に、ホントに、まったく…。)これだけ普及してるだけあって、人を夢中にさせるツールであることは間違いないし、実際楽しい。


無数のアカウントは、コーヤコーヤ星および何億光年はなれた無数の星たちである。小さな端末から見知らぬ世界、見知らぬどこかの人々とつながる。のび太のように。畳の下からコーヤコーヤへ。あれを体感しているのだ。
現実の誰かではなく、匿名の誰かの存在を意識する。意識的であれ、時に偶然に、見知らぬ人とつながる。それは時空を超えなくとも、あれほどロマンあふれるものでなくとも、運命的とさえ云える。縁。言葉を交わすとか、フォローし合うとか、いいねでもなく、もはや何を持ってつながるというのかはわからないけれど。

アカウントの星に暮らす宇宙人たち。
日々、言葉を更新する宇宙人たち。
私はどこかの星の宇宙人の交信を受け取る。
その事実。

憧れたあのドラえもんの世界、ファンタジーを今現実に味わっている。
巧いこと言いたいとかでなく、自分で気づいて本当に驚いたのである。ツイッターとコーヤコーヤ星。そして怖くなったのである。
もはや、宇宙人は生身の人間でなく、非リアルの世界の中の「キャラクター」でしかない、ということではない。現実世界を大事にしろという、説教がましい戒めの意味でもなくて。どちらも切っても切り離せないファクターだとは思うのだが。

只々、せつなくなったのである。
愛しい宇宙人たちが。
今もどこかで星(アカウント)が誕生し、死んでいく。星が消えても、宇宙人はあちらで存在していく。

 刹那。

それを踏まえてこの漫画を読むと、つらい。ただでさえ素晴らしいあのラスト。しんとして、ぞっとする。読んだ方ならお分かりになると思うのだが。
儚く、ざんこく。超名作。 いや、本当に。夜中に大人が真剣に読むものではない。かなり、くる。気持ちがふさぐ。

読んだことない方は是非一度、読んだことある方も今一度、あらためて、オススメしたい。のび太の宇宙開拓史、原作漫画で。

「ふさがっちゃうぞ。」


思いのほか、うろたえてしまったので、とにかく楽しいことを考えよう。

週末には彼とひよこ入りチキンラーメンを食べながら、一緒にドラえもんDVDを見よう。もちろん、新ドラでなく旧ドラです。映画版宇宙開拓史、そういえば見たことなかったかも。いい大人がコタツに入って、二人でしけたラーメンすすりながら、昔のアニメを見る。あーだこーだ言う。笑う。
デザートはアイス。ハーゲンダッツ
最高じゃないか。ぜったい楽しい。たまらない。たのしみ。


ケチな女の戯言である。


うわごとである。



最後にもうひとつだけ、無駄話。

昔、「小学〇年生」とか「科学」と「学習」のような雑誌のなかでドラえもんのび太が、日清の安藤百福社長にインスタントラーメン誕生までの話をインタビューして紹介する、みたいなページが本当にあった。ああいうのは多分、藤子不二雄が書いたものではないのだろうけど。その辺詳しくないのでちょっと、うまく書けないのだが。あれ、大好きだったのだけれど、だれか覚えている方はいないだろうか。

すみません、もうひとつだけ。

今回タイトルを「荒野のチキンラーメン」としたのだが、ネットで検索したら「荒野のラーメン」という粋な屋号のラーメン店が出てきた。浜松あたりにあるらしい。その名にふさわしく、豪快で男らしいスタミナあふれるラーメンの画像が出てきた。まったく、夜中に見るもんじゃない。

大長編ドラえもん (Vol.2)  のび太の宇宙開拓史(てんとう虫コミックス)
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マム

女子高時代の英語の授業。

70歳くらいに見えるベテラン英語教師。

女性。独身。

女学校時代の名残を感じずにはいられない、お固い英語の授業。

レトロという言葉では追いつかない、時代を感じるお召し物。

メガネのレンズは薄い桜色だった。

 

授業の始まりに決められた挨拶があった。

皆起立して背筋を正す。

教師のいつもの言葉を静かに待つ。

 

「グンモーニン、エブリワン!」

 Good morning,everyone!と先生。

 

「グンモーニン、マァム!」

 Good morning,ma'am!と生徒たち。

 

無言でお辞儀。

着席。

 

マァムとは勿論お母さん=momのことではない。

ma'amとはmadamの略で目上の女性や女性一般に対する丁寧な言い方、そして生徒が女の先生に呼びかけるときの呼称である。

男性でいうsir。

 が、そんなこと知りもしないあまり賢くない生徒たち。

「マムって何?は?どういうこと?おかあさん?」

最初は陰でそんなことを言いながら、

いつしか気にも留めず、一連のくだりをただ繰り返していた。

 

グンモーニンマァム!

グドアフタヌーンマァム!

無言でお辞儀。

 

頭を下げたときに毎度感じるアメリカの遠さ。

和洋折衷。

2年間続いた。

 

幸運にも、私たちはマムの退職の門出に立ちあうことができた。

花束と色紙を受け取ったマムは感激し、照れくさそうに、誇らしげに、そしてはしゃいでいた。

薄紅色のレンズの奥には私たちのような女学生がいた。