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はむつなブログ

日々感じたこと、考えたことなど書いていきたいです。

赤い実はじけて

2~3日前からアソコが痛い。

気づいた時は「なんかちょっと痛いな、様子がおかしい。」程度だった。が、今日、今この瞬間、けっこう痛い。かなり痛い。ヒリヒリする。いや、ピリピリ。私は今アソコを庇いながら生活している。

アソコとはもちろんアソコである。具体的な症状を説明すると最初ニキビみたいなものができて徐々に腫れてきている。顔などにできるニキビ(吹き出物)で稀に膿のようなものが溜まってパンパンに膨れ、触ると痛みを伴うようなアレ。弾ける寸前の爆弾ニキビ。「ブチュッ!!!」といくやつ。思い切って潰すか、自然に潰れるか、でしか解決しないストレスフルな厄介者。それが私のアソコに今存在している。どうしてそんな所に…なんて考えない。そういうこともあるだろう。これまで生きていて、突然降りかかる苦難・ハプニングに理由探しはまるで無駄だった。どう対処するかが大事だ。

目視で症状を確認。部位で言うとデリケートゾーン(ところでデリケートゾーンって誰が言い出した。便利だよ。)の中でも割合デリケートな部分。…方角は左。アレとアレの隙間(アレって何。アレだよ。)…辺り。炎症?最初に確認した時よりずっと膨れている。少し赤い。ドキリとした。もうニキビなんてレベルじゃない。まるで新たな部位のよう。肉片だ。自分の体の一部といえジッと長く見ていられないのは、もともと極めて不気味ともいえるその部分の様相のせいだろうか。と思ったけどそうじゃない。そこを確認するには不自然すぎる前かがみ姿勢を取らざるを得ないから。首が痛い。

私は焦っている。が「病院に行く」という道は捨てている。皮膚科なのか婦人科なのかわからないが、行けば適切な診断・処置を施してくれることはわかっている。事務的に対処してくれて、確実に安心感を得ることができる事も。それでも行きたくない。だって恥ずかしいだろ。おっぴろげるって。だから、パソコンを開く。「アソコ・できもの・女性」で調べる。ただでさえ顔をしかめるような画像が出てくる恐れがある。「女性」を入れなかった場合のダメージは慎重に回避しなければならない。狼狽必死。
清潔で親切なサイトが具体的な症例を教えてくれる。とどのつまりは「病院に行け」と丁寧に言っているが、そこは無視。
素人判断ながらこれだというものに目星をつける。性器ヘルペス・梅毒・尖圭コンジローマ。では絶対ない。私の名誉。そして「尖圭」って何て読むんだよ。親切なサイトのくせしてふりがな打て。調べた。「せんけい」らしい。また賢くなった。とにかく私の場合、中の膿がでないことには治まりそうもない。

歩くと股が擦れるのと振動とで「ウッ」となる。痛い、本当に痛い。ジーパンなんか、パンストなんかあり得ない。「刺激」が強い。椅子に腰かける時でさえ少し足を広げておかないと痛い。きちんと足を閉じるのが困難だ。つまり、もう破裂寸前の膨らんだあの部分がギュッと挟まれる状態はとにかく…。

私は今、股のゆるい女。どうか、はやく赤い実はじけて。

テレビの復活

2017年、年が明けてテレビが壊れた。

電源が入らない。どうやら冬の夜の冷たすぎる室温にやられたっぽい。おそらく、窓際に置いていたせい。結露がテレビの中の複雑な回路に入っていたらアウトだ。最初の内は電源を入れて何時間かすると赤いランプが灯り、リモコンを押すとテレビは復活した。完全に壊れてはいない。生きている。けれども、朝になると必ず電源が入らなくなる。しばらくすると赤いランプが点くことさえなくなった。

困る。
ヤフオクで競り落とした、名も無いメーカーの、しかも新古品みたいなヤツだったが、寒さにやられるなんてポンコツすぎる。ここは北海道じゃない。いや、北海道なら逆に室内の暖房がたいへん充実しているらしい。北海道で生まれ育った人間は進学や就職で道外に出て最初の冬、新天地での暖房設備の貧弱さに驚き嘆くというじゃないか。北海道の人って道内から出たことない人もいるらしい。北海道に住んでいながら札幌・函館・小樽・富良野旭山動物園といった観光地に行ったことがない人も多いそうだ。上下左右、端から端まで移動するには他県民には想像できないくらいの時間がかかるらしい。ガソリン代や暖房代といった燃料費が半端ないという。気軽に道内をあちこち観光できるという発想は道民にとってお話にならない、いや時に他県民の北海道に対する認識のギャップへの笑い話として、もはや数ある北海道名物の中で灯台もと暗し的且つ棚ぼた的な最新の北海道名物、とさえ言える。
私はケンミンショーの北海道話をしているだけ、ではないのか。私はケンミンショーをそんなに見ないのにどうしてこれほどケンミンショーの内容を記憶し信頼し饒舌に語っているのか。ケンミンショーがあらゆる世代に認められているのはそういうことか。解りやすく気取らない地域のあるあるネタは記憶に残り信頼でき誰もが、もの知り顔で饒舌になる。

ちなみに私は高校の修学旅行で北海道を訪れたことがある。

世間話の中でふいに修学旅行の話題になった際、相手に旅先を尋ねるとアメリカやオーストラリアだった、というその人達の「よくぞ聞いてくれました、実は海外だったんですよ」感を一切出さない、それでいて「よくぞ聞いてくれました、実は海外だったんですよ」感のにじみ出る嬉々とした素早い返答にわずかな軽蔑心を抱いたものだ。純粋なる僻み(ひがみ)。バター飴と瓶詰イクラのなんたる、とんちき感。時は既にグローバルで広い視野を持つ時代であるのかもしれないが、17歳くらいの学生が親の積み立てた旅費でチャラチャラと海外なんぞに出向き、その全く罪無き事実を自然に厭らしくなく話せる人は少ない。違う、厭らしくなく聞ける人ばかりでない、のか。もちろんそんな偏見溢れる心情は一切態度に出さず、「へ~、ディズニー、ロサンゼルスの、あぁカリフォルニアのね、へー、すごいね。」とそれしか言いようのない会話を続け、しばし話を聞いていた。色々考えたけど海外組の諸君。できれば海外話は相手の旅先での話を聞いてから、にして頂きたい。LAディズニーの後にスキーや神社仏閣の話は少しだけ恥ずかしくなるもの、なんですよ。北海道や京都を恥じているのではない。世間はまだまだアングローバルなケンミンショーである、ということ。

壊れたテレビ、否、壊れかけのテレビの話に戻す。

とにかくどうしよう。購入してまだ2年だ。買い変えたくない。どうにかしよう。コイツ(テレビ)は寒さに弱い・・・。試しに冬でも暖かな日光の入る部屋の南側に甲羅干しをさせてみた。すると1時間後、赤いランプが復活した。…生き物かよ。しばしテレビを楽しむ。翌朝になるとまた電源が入らない。昼に甲羅干しができない時は夜コタツの中で温めてみた。するとテレビは復活した。ほんとコイツ、生き物かよ。甲羅干しorコタツ→復活→翌朝電源が入らない。これを数日繰り返すも段々と面倒になった。そういえばテレビなんてかなり見る時間が減っていた。ドラマはほとんど見ないし、バラエティー番組は時にやかましく、ニュースは暗い話題ばかりで、というよりもテレビを楽しんでいない自分に気づいていた。ボリュームをゼロにすることも多かった。私はいつしかEテレばかり見るようになっていた。趣味の園芸きょうの料理団塊スタイルetc。・・・私はたぶん、絶対、疲れている。(団塊スタイルの風吹ジュンはとてもかわいい。あの魅力は一体何なのだろう。彼女目当てで視聴する年配者はかなり多いはずだ。)

ないと困るけど、困らないかもしれない、テレビ。どうしても見たい番組があればパソコンで後から動画を見ることもできる。そんな風に感じ始めてからまもなく、テレビの方がいくら温めてもウンともスンともいわなくなった。(ウンともスンともって、まだ言ってもいいのかな。)
1月の中旬。テレビは死んだ。私はテレビを全く見なくなった。(見れなくなった。)

それからはほぼインターネットで世間の流行やニュースを取り入れた。テレビのない生活に最初は戸惑いつつもすぐに慣れ、困ることはなかった。後からネット動画を見ることさえなかった。無音の部屋にも慣れた。たまに本を読み、Twitterとブログを始めた。社会的なニュースもゴシップもテレビを見ずとも情報が入る。学校法人だか何だかの土地をめぐる問題、どこかの旅行会社が倒産した、芸能人は誰が結婚し誰が不倫し誰が離婚をしたか。どんなテレビ番組が人気なのか。カルテットというドラマが話題になっていた。私はなぜか唐揚げレモンことまで知っている。それくらい人気なんだろう。けれど、私はそのドラマの魅力を知らない。


4月。
桜も近い。いつもの通りがピンク色に染まるだろう。あれは自然の一方的なイルミネーションだ。あっという間に葉桜になり蒸し暑い日々が訪れ、すぐに夏を感じるようになるのはわかっている。そんな季節の移り変わりに思いを馳せつつ部屋の掃除をしていた。掃除機をかけながら、ふいに死んだテレビが目に入る。暖かな季節になっていることを体で感じ頭でひらめき心にほのかな期待を抱き、コンセントをつないでみた。

赤いランプが灯った。死んでいなかった。生きていた。春を待っていたのだ!冬眠していたのか!まるで生き物のようなテレビといえども死んだふりはやめてくれよ。本日4月1日にわたしを欺くようなことはしないでおくれよ!

テレビの復活。
わたしのテレビライフが再スタートする。
まずはケンミンショーか、団塊スタイルか、いや、ブルゾンちえみだ。
私は今だに彼女の動いている姿を知らない。

図書館

地元の図書館に行った。
最後にその図書館で本を借りたのは十数年前だ。その間、図書館で本を借りるという発想がまるでなかった。行きたいという気持ちもなかった。本当に久しぶりに足を運んだ。建物も雰囲気も昔と何ひとつ変わっていなかった。なにより一番新鮮に感じたのは、無料で本が借りられるということ。その当然の仕組みに感動した。読みたかった本がタダで読める。家に持ち帰りゆっくり読むことができる。嬉しかった。本は高い。たくさん読もうと思っても、読みたい本があっても、お金を本に惜しみなく使うことはできない。ネットを見ていると思わず読みたくなる本が出てくる。あらすじやレビューを眺めていると、ますます読みたい気持ちが高くなる。次々にそんな本が増えるが、増えれば増えるほどその気持ちは移り気になり、そしていつしか忘れていく。当たり前だが、読まなければ困るものではない。生活において後回しにできるもの。それでも手に取って読みたくなるのは心動かされ、感動したいからだろう。そして、色々と考えたいのかもしれない。


図書館は思っていたより混んでいた。指定の駐車場は満杯だった。警備員は空き地(臨時の駐車場)へとすぐに誘導してくれた。ホッとした。もし待たされる状況なら帰っていたかもしれない。田舎育ちのせいか、のんぴリできない性格のせいか、路肩にとめた車の中でじっと待つということがとにかく苦手だ。
建物に入り図書フロアーで辺りを見回す。特に目立ったのは年配の男性達だった。白髪交じりのおそらくは勤めをリタイアした年代の人たちが多く目についた。椅子に腰かけ、熱心に読書をしている。そのくらいの年齢の男の人は一体どんな種類の本を読むのだろうか。偏見としては歴史小説か。そんな人ばかりではないだろうけど、気になる。あまりジロジロ見ることはできないのでチラ見する。眼鏡をかけて本を読む、普段着の男たち。家の外でゆっくり座って快適に時間を過ごせる場所は限られている。外は寒いし、喫茶店も本屋も長居は出来ない。改めて図書館という場所について考えた。誰にも干渉されない、干渉しなくていい場所。少しのうたた寝くらいは許してもらえるだろう。誰にも邪魔されず堂々と静かに落ち着ける場所。ショッピングモールや流行の店など、人の賑わう場所がきつく感じるようになった私にも楽でいられる空間だった。色とりどりの活気あふれる若者の街に未だに憧れはあるけど気後れする気持ちの方がずっと大きい。楽しそうな笑い声がどうしてもうっとうしいと感じる時があった。一言で言うと疲れる。それだけ。

久しぶりの図書館で「本を探す」という流れをつかめないまま、とりあえず雑誌コーナーで立ち読みする。周りの人たちの気配・雰囲気を背中で感じながら自分を図書館に慣れさせる。少し緊張していた。雑誌に目を落としながら、頭の中で最近読みたかった本を必死に思い出す。メモしておけばよかった。まあいいや、ゆっくり探そう。大きな図書館ではない。蔵書もたかが知れている。だから、いい。小説のコーナーも「あ行」から追っていけばすぐに読みたかった著者名が見つかるはずだ。そのくらい手ごろな規模の図書館だ。
以前TSUTAYA図書館に観光がてら訪れたことを思い出した。建物はきれいでおしゃれでとてもかっこよかった。本の量は多すぎた。背の高い書棚の列は迷路と変わりない。もはや何を探しているのか、何を読んだらいいのか分からなくなっていた。館内ではたくさんの若者たちが読書する様子を見物することができた。机には必ずスタバのコーヒーのカップがあった。ちょうど12月のクリスマスシーズンでカップの色は鮮やかな赤色だった。もちろん、観光客のわたしも同じようにならい、名物のコーヒーを買い何食わぬ顔でさりげなく読書の時間を過ごした。恥ずかしくもあり嬉しさもあり、落ち着かなかった。疲れた。いい思い出だ。普段使いの図書館は本当にそこそこがいいのかもしれない。疲れてはいけない。


こちらの分相応の図書館の雰囲気に慣れてきた私は何冊かの借りたい本を手にし、せっかくだからここで1冊くらい読んでいこうと窓際の椅子に腰かける。私は自分の部屋以外では小説というものが読めない。全く入り込むことができない。なので、ここはエッセイだろうと中村うさぎの本を手にする。あけすけだからではなく、ここまで自分について正直に公正に説明しようとする姿勢はすごい、だから読んでいておもしろい。そしてこれほど自分と向き合うのはそれなりに大変だよな、自分の頭の中でいつも裁判が行われているのだな、程度の差こそあれ私もそうで、誰もがそういう風にして生きているのだろう、などと考えながら読書を楽しんでいた。そんな時、私の座っているそばの椅子にパタパタと小走りで近づいてきた人がいた。

その気配に顔をあげると、その人は私の存在に気づき、大きくニコっと笑い、はっきりと会釈をし近くの席に腰かけた。わたしも思わずぺこりと会釈した。知り合いではない。女の人だった。年齢が分からない。というのも、わたしはメガネをはずして読書をしていたので裸眼では人の顔の詳細を識別できなかった。ニコッと笑ったその表情もはっきりと認識したわけではない。ぼやけた視界の中でかすかにその表情を読み取れたというだけだ。それでも勘でも勘違いでもなく、彼女が私に笑顔を向けたのは間違いないと感じた。その理由は匂いだった。

本に視線を戻しながらも視界の端に写るその女性の気配を窺う。その人は何か自分の持ってきたファイルのようなものを熱心にめくっていた。子どものように。でも大人なんだろうなということは分かっていた。わたしはまだメガネを外している。まだその人のくっきりとした姿を判別していない。青い服を着ていることは分かったが、それがジャージなのかブラウスなのか見当はつかない。何となく席を移ろうかなと思わず感じたのは私が人間だからだろう。その人はとても楽しそうに、とても嬉しそうにファイルをめくっていた。たぶん満面の笑みで。はっきりとは聞き取れなかったけれど何かつぶやいている声が聞こえた。ひとりで。楽しんでいるようだった。まるで子どもだった。独特のにおいがあった。比喩ではなく、匂い。どう説明していいのかを人に考えさせてしまう、匂い。臭かった。そのまましばらく本を読んでいて、その人はわたしにむやみやたらに話しかけたりはしないだろうことが何となく分かった。できれば話しかけられたくなかった。わたしはそのまま読書を続けた。もちろん匂いはある。そのまま本に夢中になっていると、気づいたらその人はいなくなっていた。ついにメガネはかけなかった。

私の頭の中では裁判が始まっている。子どもはたまに臭い。動物は臭い。人間にもにおいがある。それは自然なことである。子供のような、少し動物のような人にもにおいがある。そのことについて、時に深く考えたり考えないように努めたり、言葉を選んだりしようとするのは人間だからだろう。野生の動物からしたら人間は臭いのかもしれない。不快なのかもしれない。だぶんそうだろう。

誰かの、反射的に向けられたその笑顔に、それがはっきりと見えなかったとしても、少しの恐れを感じたとしても、感動してしまうのはどうしてだろう。わたしは彼女のようになれないけれど、彼女のように笑ってもいいのかもしれない。

春の狂気 映画「櫻の園 1990」 

櫻の園【HDリマスター版】 [DVD]


3月。気温のゆるみにほっとする。もうあの寒さはやってこないのだ、と春の訪れを喜ぶ。が、そんな歓迎されるべき季節、特に3月という時間にひどく感傷的になる。難しい言葉を使いたくないので「おセンチ」と言おう。誰もがかつて、この時期に別れを経験する。させられる。これまでの生活とこれまでの自分からの別れ。区切り。3月というのは学校を卒業し、次の居場所までのそのあいだの月。どこにも拘束されていない身。証明できない期間。希望と焦り。その心もとない、ふわふわした状態を体が覚えているからだろう。まぶしい季節のどうしようもない憂い。春の狂気。わざわざ誰も口に出さないけれど、誰もがそう感じているのだと思いたい。

前置きが長いけど、ここから。
今の季節にぴったりの映画。あらすじとかは具体的には書きません。

櫻の園 1990年公開映画

洋画・邦画たくさんある中、また見たくなる作品というものは少ない。大抵は一度見ておしまい。「櫻の園」は何年かに一度、今くらいの季節に見たくなる。

原作は吉田秋生の漫画である。漫画の内容に沿っている所もあるけれど、まったく別物として楽しめる。少女と大人の間の不確かな時間を切り取った青春映画とでも言っておこう。大人になって学生生活を舞台にした映画やドラマを見ると、その青臭さに戸惑ったり、かけ離れたような素敵すぎる設定・展開に尻込みすることがある。この映画に関しては過ぎた季節を懐かしく感じつつ、どこかの誰かの青春の日をのぞいているような気分になる。そして客観的に眺めているようでいて、学生時代に感じる普遍的な気持ちや感覚に自分を重ね合わせて見てしまう。
映画でも小説でも「考えさせられる作品」というものがある。この櫻の園という映画は間違いなく「感じさせられる作品」だ。

私がこの映画を初めて見たのは高校生くらいの頃(だと思う)。深夜にテレビで放送されていたのをたまたま目にした。意識して最初からしっかり見ていたわけではないので、当時はあらすじをつかめていなかった。けれど「何だこの映画は…。」と強烈に感じた事を今もはっきりと覚えている。映画の中に漂う独特の雰囲気。これって…見てもいいのかな、見てはいけない世界を見てしまったという感触。あの感覚が忘れられず、数年後レンタルして改めて鑑賞した。そして、ますます惹かれた。決して過激な描写がある作品ではない。静かな色気と清潔さにあふれた作品。出演する俳優が時代的に微妙に馴染みがないからこそ入り込めるというのも大きい。

女子高が舞台なのだが、女生徒たちの描写がとにかくイイ。いろんな種類の人間の個性や性格、心情をこれでもかと鮮やかにみせている。それぞれの女生徒たちのどこか演じているかのような絶妙な台詞や立ち振る舞い。(もちろん俳優が実際演じているのだが。)それが、ものすごくリアリティがある。私が、誰もが、これまでに出会った人間をみているかのような気分になる。

メインキャストの生徒が何人かいるのだが、不思議なことにその他大勢の生徒達をもはや脇役だと感じない。主人公がいれば、主人公の人間性・行動・生き方等がクローズアップされ、当然ながら主人公の物語を見ている気分になる。その他大勢の脇役はあくまで装置としての人物でしかない。だけれど、この映画の中ではその他大勢の脇役でありながらも、それぞれが人格をもったそれぞれの人生においての主人公であることを改めて意識させられる。

「毎年美しく咲き乱れる桜は同じに見えるけれど同じではない。」

学校というものの残酷さ。それは生徒は必ず卒業していくということ。入れ替わりであり、繰り返されるもの。うつくしく、かけがえのない日々だったという若き日々への郷愁ではない。あの時の生徒たちはもういない。あの空間にいた、その時間というものはもう存在しない。誰にも変えることができない事実。時間の摂理。

春という季節の持つ狂気。それを淡々と描いたかのようなこの作品。素晴らしい。

口に出せない疑問

ユダヤ人の迫害について初めて学ぶのは小学校高学年くらいか。
手塚治虫の漫画や映画でも目にしていた。

アウシュビッツ。有刺鉄線。整列した軍人。縦じまの上下を着たユダヤ人。なきがら。白黒だから余計に暗く悲しく、そして怖かった。大人になった今、子供の頃よりはるかに見るのが辛い。
私は中学の頃、社会の授業で学び、ユダヤ人たちがかわいそうでならなかった。命がけの国外逃亡、隠し部屋をつきとめられ収容所へ連行される。わたしはナチスを、ヒトラーを憎んだ。ジンシュサベツはあってはならない、なぜつみなき人々があのように殺されなければならないのか。子供心にイキドオリを感じていた。私は心からナゲキながら、疑問を抱いていた。それはまさしく、まぎれもなく、純粋なギモンだった。聞いてはいけないような気がして誰にも聞けなかった。「何を言っているの?」と馬鹿にされそうで口に出せなかった。


なぜ「私はユダヤ人ではありません。」と言わないのか。

(何を言っているの?)



もうひとつ、同じ頃。

「ホモ、ゲイ。あいつはエイズだ。」それはなぜなのか。

(何を言っているの?)


この感覚。口に出せない疑問。


誰にも聞けなかった。子供だった。
ちゃんとした子供だった。

インターネットが普及するのはまだまだ先だ。

年寄りの嗜好

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年寄りは炭酸飲料が好きである。
間違いない。

緑茶より、ほうじ茶より、炭酸飲料。
カルピスより、ヤクルトより、炭酸飲料。
彼らは炭酸を愛し、炭酸に憧れている。

祖父は生きていたころ馬鹿みたいにコーラを飲んでいた。
コーラは日常だった。
畑仕事の相棒だった。
農作業小屋には赤い空き缶が溢れかえっていた。

ある時、コーラを飲むと骨が溶ける、という噂を聞きつけた祖父。
おそらくテレビかラジオか。
「もう、コーラは飲まん。」と言いだした。
健康に気を使うような爺ではなかった。
気まぐれか、気まぐれ。
そして三ツ矢サイダーに。

一緒じゃねーか。

そう思ったが関せず。

コーラ断ちも束の間、数日後には再び赤い缶が転がりだした。


祖母は仲間内でお手製の野菜やおかず、漬物だのをあげたり、もらったりしている。
おすそ分けである。

春、
トミちゃんからぼたもち。
吉田さんちからタケノコ。
中村のおばあちゃんから昆布の佃煮。
夏、
トミちゃんから生姜の漬物。
シゲちゃんからゴーヤー。
秋、
トミちゃんからおはぎ。
中村さんの旦那さんからサンマ。
冬、
シゲちゃんから大根と白菜。
トミちゃんから黒豆。
トミちゃんから数の子。


コミュニティは広いようで狭い。
そしてトミちゃんは、婆でなく爺だった。

冷凍室は謎のおすそ分けで溢れかえっている。時間が止まったこの空間には賞味期限など存在しない。

スーパーの白いビニールに入れるのはやめていただきたい。
確認する間に手が凍る。


祖母もお返しに励む。
もらってばかりではいられない。
だが時にはお返しに困ることもある。
そういつも、手製の品があるわけではない。

そんなとき、季節を問わない、誰もがもらって喜ばれるもの。

年寄りのてっぱん。
年寄りの虎の子。
年寄りの信頼の証。
それは、


オロナミンCの10本パック。

間違いない。



年寄りは元気ハツラツなのだ。

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ネタバレ注意報

                           平成29年2月25日

読書感想文のネタバレについて(お詫び)

拝啓
皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
平素ははむつなブログをご愛読いただきお礼申し上げます。

さて、この度は、当ブログにて読書感想文を公開したところ(平成29年1月30日付)、コメント欄にてお叱りの声を頂きました。

ご指摘の内容はネタバレすべきでないということ。
詳しくはネタバレさせずにそっと本を薦めるべきだというご見解。
貴重なご意見でございました。


当方、ブログで感想文を掲載するにあたり、文頭で下記の表記をしておりました。


※ネタバレがありますので、本を読んでいない方はどうか見ないで下さい。
もったいないです。本を買って、まずは読んでください。買いです。


ツイッター上でも全く同じではありませんが、同様の文言を記載しておりました。


この度は私の身勝手かつ軽はずみな表現で一部の読者様の楽しみ、知的欲求を損ない、不快な思いをさせてしまいました事、心よりお詫び申し上げます。

細心の注意を払っているつもりで書いた喚起の言葉でした。
私なりの純粋な警告のつもりでございました。

が、まるで


今、オ◯ニーできないなら絶対に見ないでください。
その場で100%ヌイてしまいます。


という、件のバナー広告に似て非なるものでございました。

これでは如何にも、まさしく釣りでした。
いかがわしいものでした。遜色ないものでした。
いえ、似ても似つかぬものでございます。まったく不遜でございます。

頬を赤らめた婦女子のあられもない姿。
添えられた粋なプロモーション。健康的且つ効果的。非の打ち所がない宣伝スタイル。
それに比べ、足元にも及ばないわたくしの駄文。
安売りチラシの如く慇懃無礼なものでした。自身の浅はかな欲求を満たすべく、ぶしつけで傲慢な言い回し。歴然としたレベルの違い。まったく、不快にさせるものでした。いかがわしいのは、まったく、このわたくしめでございます。

仰るとおりでございます。
この通り、謹んでお詫び申し上げます 。

ご批判を真摯に受け止め、今後再発防止に努めてまいります。

近日中に、昔ばなし「桃太郎」の読書感想文を書く予定でございました。
こちらも負けず劣らず出色の作品でございます。痛快で優れたこの物語をネタバレしないよう、是非とも手に取って読んでみたい、と思って頂けるような文章を書く所存でございます。その際も「ネタバレ注意」と喚起の言葉を添えますが、浅学非才(せんがくひさい)のちせつな文章ゆえ、皆様方の「野生の勘」で、あらかじめ判断いただきますようお願い申し上げます。

これを機に更なる努力を重ね、より一層精進してまいります。

たいへん貴重なご意見ありがとうございました。

恐縮ではございますが、皆さまには今後ともご厚情を賜りますようお願い申し上げます。

                                敬具
                                はむつな





抗議文ではございません。
お礼状でございます。
大人げない私の感謝の言葉です。

まとまりの無い、下手糞なひたすら長い読書感想文を読んでいただき、コメントを書いて頂いたこと心から嬉しく思っております。

書評ではなく、読書感想文です。
もはや「どくしょかんそうぶん」です。

ひらめきと道楽で始めたブログです。
自傷とリハビリのようなイージーでのんきなアーパーブログです。
スムージーとヨガとランチ同然でございます。

全く、無意味なことに時間を費やしている自分にぞっとしていました。
けれども、どこかの誰かがこのブログを読んでいる気配があると慌てふためき、そして思わず顔がほころぶばかりでした。

「言っていることはわかるが、」という前置きで始まるコメントにはめいめいのご意見・お考えがあるのだと思っています。
言及するつもりはございませんし、言及できるはずもございません。
私の文章そのものがエゴイスティックで未完成なものです。
「もっと上手に、こう書けば良かった、ああ書けば良かった」と繰り返し悔やむ思いでした。実際書き換えることはできるのですが、それは「なにか」に反するのではと、アーパーなりに思うところがあり止めました。
どのような内容のコメントであれ、「わかるが」のその一言には、ただただ報われる思いです。
おっしゃっていた内容には私も「わかる」の一言でした。

お名前の付いたコメントに対し(匿名ではあるでしょうが)、名指しで糾弾するかのような、このような文章を一方的に載せることは筋違いだと思いましたので、頂いたコメントは本日、非公開にさせていただきました。
どうか、ご容赦ください。

初めてのコメントをいただいた方へ、この場を借りて感謝申し上げます。


ネタの提供、ありがとう  m(__)m

気が向いたら、また読んでね(^^)/


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