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はむつなブログ

日々感じたこと、考えたことなど書いていきたいです。

図書館

地元の図書館に行った。
最後にその図書館で本を借りたのは十数年前だ。その間、図書館で本を借りるという発想がまるでなかった。行きたいという気持ちもなかった。本当に久しぶりに足を運んだ。建物も雰囲気も昔と何ひとつ変わっていなかった。なにより一番新鮮に感じたのは、無料で本が借りられるということ。その当然の仕組みに感動した。読みたかった本がタダで読める。家に持ち帰りゆっくり読むことができる。嬉しかった。本は高い。たくさん読もうと思っても、読みたい本があっても、お金を本に惜しみなく使うことはできない。ネットを見ていると思わず読みたくなる本が出てくる。あらすじやレビューを眺めていると、ますます読みたい気持ちが高くなる。次々にそんな本が増えるが、増えれば増えるほどその気持ちは移り気になり、そしていつしか忘れていく。当たり前だが、読まなければ困るものではない。生活において後回しにできるもの。それでも手に取って読みたくなるのは心動かされ、感動したいからだろう。そして、色々と考えたいのかもしれない。


図書館は思っていたより混んでいた。指定の駐車場は満杯だった。警備員は空き地(臨時の駐車場)へとすぐに誘導してくれた。ホッとした。もし待たされる状況なら帰っていたかもしれない。田舎育ちのせいか、のんぴリできない性格のせいか、路肩にとめた車の中でじっと待つということがとにかく苦手だ。
建物に入り図書フロアーで辺りを見回す。特に目立ったのは年配の男性達だった。白髪交じりのおそらくは勤めをリタイアした年代の人たちが多く目についた。椅子に腰かけ、熱心に読書をしている。そのくらいの年齢の男の人は一体どんな種類の本を読むのだろうか。偏見としては歴史小説か。そんな人ばかりではないだろうけど、気になる。あまりジロジロ見ることはできないのでチラ見する。眼鏡をかけて本を読む、普段着の男たち。家の外でゆっくり座って快適に時間を過ごせる場所は限られている。外は寒いし、喫茶店も本屋も長居は出来ない。改めて図書館という場所について考えた。誰にも干渉されない、干渉しなくていい場所。少しのうたた寝くらいは許してもらえるだろう。誰にも邪魔されず堂々と静かに落ち着ける場所。ショッピングモールや流行の店など、人の賑わう場所がきつく感じるようになった私にも楽でいられる空間だった。色とりどりの活気あふれる若者の街に未だに憧れはあるけど気後れする気持ちの方がずっと大きい。楽しそうな笑い声がどうしてもうっとうしいと感じる時があった。一言で言うと疲れる。それだけ。

久しぶりの図書館で「本を探す」という流れをつかめないまま、とりあえず雑誌コーナーで立ち読みする。周りの人たちの気配・雰囲気を背中で感じながら自分を図書館に慣れさせる。少し緊張していた。雑誌に目を落としながら、頭の中で最近読みたかった本を必死に思い出す。メモしておけばよかった。まあいいや、ゆっくり探そう。大きな図書館ではない。蔵書もたかが知れている。だから、いい。小説のコーナーも「あ行」から追っていけばすぐに読みたかった著者名が見つかるはずだ。そのくらい手ごろな規模の図書館だ。
以前TSUTAYA図書館に観光がてら訪れたことを思い出した。建物はきれいでおしゃれでとてもかっこよかった。本の量は多すぎた。背の高い書棚の列は迷路と変わりない。もはや何を探しているのか、何を読んだらいいのか分からなくなっていた。館内ではたくさんの若者たちが読書する様子を見物することができた。机には必ずスタバのコーヒーのカップがあった。ちょうど12月のクリスマスシーズンでカップの色は鮮やかな赤色だった。もちろん、観光客のわたしも同じようにならい、名物のコーヒーを買い何食わぬ顔でさりげなく読書の時間を過ごした。恥ずかしくもあり嬉しさもあり、落ち着かなかった。疲れた。いい思い出だ。普段使いの図書館は本当にそこそこがいいのかもしれない。疲れてはいけない。


こちらの分相応の図書館の雰囲気に慣れてきた私は何冊かの借りたい本を手にし、せっかくだからここで1冊くらい読んでいこうと窓際の椅子に腰かける。私は自分の部屋以外では小説というものが読めない。全く入り込むことができない。なので、ここはエッセイだろうと中村うさぎの本を手にする。あけすけだからではなく、ここまで自分について正直に公正に説明しようとする姿勢はすごい、だから読んでいておもしろい。そしてこれほど自分と向き合うのはそれなりに大変だよな、自分の頭の中でいつも裁判が行われているのだな、程度の差こそあれ私もそうで、誰もがそういう風にして生きているのだろう、などと考えながら読書を楽しんでいた。そんな時、私の座っているそばの椅子にパタパタと小走りで近づいてきた人がいた。

その気配に顔をあげると、その人は私の存在に気づき、大きくニコっと笑い、はっきりと会釈をし近くの席に腰かけた。わたしも思わずぺこりと会釈した。知り合いではない。女の人だった。年齢が分からない。というのも、わたしはメガネをはずして読書をしていたので裸眼では人の顔の詳細を識別できなかった。ニコッと笑ったその表情もはっきりと認識したわけではない。ぼやけた視界の中でかすかにその表情を読み取れたというだけだ。それでも勘でも勘違いでもなく、彼女が私に笑顔を向けたのは間違いないと感じた。その理由は匂いだった。

本に視線を戻しながらも視界の端に写るその女性の気配を窺う。その人は何か自分の持ってきたファイルのようなものを熱心にめくっていた。子どものように。でも大人なんだろうなということは分かっていた。わたしはまだメガネを外している。まだその人のくっきりとした姿を判別していない。青い服を着ていることは分かったが、それがジャージなのかブラウスなのか見当はつかない。何となく席を移ろうかなと思わず感じたのは私が人間だからだろう。その人はとても楽しそうに、とても嬉しそうにファイルをめくっていた。たぶん満面の笑みで。はっきりとは聞き取れなかったけれど何かつぶやいている声が聞こえた。ひとりで。楽しんでいるようだった。まるで子どもだった。独特のにおいがあった。比喩ではなく、匂い。どう説明していいのかを人に考えさせてしまう、匂い。臭かった。そのまましばらく本を読んでいて、その人はわたしにむやみやたらに話しかけたりはしないだろうことが何となく分かった。できれば話しかけられたくなかった。わたしはそのまま読書を続けた。もちろん匂いはある。そのまま本に夢中になっていると、気づいたらその人はいなくなっていた。ついにメガネはかけなかった。

私の頭の中では裁判が始まっている。子どもはたまに臭い。動物は臭い。人間にもにおいがある。それは自然なことである。子供のような、少し動物のような人にもにおいがある。そのことについて、時に深く考えたり考えないように努めたり、言葉を選んだりしようとするのは人間だからだろう。野生の動物からしたら人間は臭いのかもしれない。不快なのかもしれない。だぶんそうだろう。

誰かの、反射的に向けられたその笑顔に、それがはっきりと見えなかったとしても、少しの恐れを感じたとしても、感動してしまうのはどうしてだろう。わたしは彼女のようになれないけれど、彼女のように笑ってもいいのかもしれない。